「奇跡のリリーバー」と呼ばれた投手がいる。脳腫瘍を克服した盛田幸妃氏。シュートを駆使し、平成初期のゲーム終盤で強烈な輝きを放った。

病床からのブログで「恩人。会わなかったら自分はなかった」と記し、父親のように慕われた巨人小谷正勝巡回投手コーチ(73)が語る。

2軍のブルペンから出てきた小谷とはち合わせた。「盛田さんのことを」と言うと、しばらく立ち止まってから「戻ろう。こっちへ」ときびすを返し、古い小屋に入った。

2月1日の宮崎は冷える。ブルペンの控室は暗く、白い筒形の灯油ストーブがあった。腰掛け、小窓の中で揺れる消えかけの炎をじっと見て、帽子を脱いで頭をかいて、固まった。小窓に手をかざして、ぼそりと語りだした。

◇   ◇   ◇

ドラフト1位で入った盛田なのに、積極的に使おうとする雰囲気がまるでないわけだ。わざと使わないようにも見える。

聞いて回ると「生意気で、言うことを聞かないので」と言う。頭に来てな。絶対に、何とかして世に出すと決めたんだ。実際、そんな素材だった。1位だからな。

ピッチャーとしての感性が豊かで、頭が良かっただけ。自分をしっかり持っていて、ハッキリと意見を言える素直な子。それを生意気と言うのは間違っている。そのうち1軍で投げるようになったけど、名前を売ったのは落合(博満)を完璧に抑えたからだ。

「投げてきますわ」とマウンドに行って、本当にあのシュートで落合をひっくり返してもまだ、投げ続けていた。7球とか8球も続ける度胸があった。

まともに打たれた記憶がないんだよな。ヒットもカンチャンで、ライト前に落ちるっていう。当時はホールドという概念が生まれたばかりで、やりがいに感じていた。

今となっては反省が残ってしまう。9回に佐々木(主浩)がいて、8回は盛田。7回を安心して任せるピッチャーを作れなくて。どうしても負担が大きくなってしまった。で、近鉄にトレードになってから脳腫瘍が分かった。「知っててトレードに出したのか」と問い詰めたら、誰も知らなかった。「足がつる、けいれんする」と言ってたんだ。まさか脳に…知識が足りなかった。

近鉄でカムバック賞を取った。あれだけ大きな病気をして戻るだけでもすごいのにな。「小谷さん、もうオレは昔みたいに速い球を投げられる体じゃありません。

でも投球って何かと言えば、いかにバッターのタイミングを外すか…それがようやく分かりました」と話してきた。実際に変化球でゴロを打たせるスタイルにガラッと変えたんだけど、そういう感性があった。相当、努力したんだろう。

当時のベイスターズは年の近い子が多くて、にぎやかでね。キャンプで朝まで戻ってこなくて心配してたら、上半身裸で帰ってきてさ。体中にマジックで落書きが書いてある。

「お前は一体、どこで何をしてきたんだ」って…あの頃は本当に楽しかった。亡くなる10日くらい前、危篤になってから見舞いに行ったときに佐々木と野村(弘樹)も来てくれて。あの子らは仲が良かったから。優しいなと思った。

一流になる選手というのは非常に繊細で、人の気持ちも分かる。技術だけじゃトップにはいけない。感性が豊かじゃないと。

盛田も、特に佐々木なんかもそうだけど、普段はとにかく威勢がいいから、そこしか見えない人は誤解する。でも実際はまったく違う。マウンドとは、虚勢を張らないと戦えない場所でもある。3人を見てそんなことを考えていた。

盛田には弟がいて、小学校に上がる前にがんで亡くしている。かわいがっていたらしい。手を合わせてから毎日グラウンドに出ている話を聞いて、やっぱり優しい、

繊細な子だなと思ったよ。もっと早く気付けばとか、若いうちから検査を受けろ…言ってたけど、もっと強く言えば良かったとか…後悔しても遅いな。


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ネットの反応

1.
生きていればいい指導者になれたはず。
残念だな… 弟もガンだったとは、もうガン家系だったんだろう。
2.
盛田さんが脳腫瘍を患っていたのは知っていたが、弟さんもそんなに小さいときにがんで亡くなっていたと初めて知った。盛田さんは愛されていた。そういう人に限って早く亡くなる気がするのは私だけだろうか。
3.
>一流になる選手というのは非常に繊細で、人の気持ちも分かる。
でも長嶋みたいに、超一流になると人の気持ちも・・・
4.
盛田投手が脳腫瘍から復帰登板となった、藤井寺球場の一軍最終戦を見に行ってました。
スタンドみんな泣いてましたよ。「よう帰ってきた!」って、みんな声枯らしながら声援送ってた。
その2年後には近鉄の優勝に大貢献してくれた。
日本シリーズの好投も、神宮球場で目の前で見ました。

あのまま元気にいてくれると思ってたんですけどね。
本当、残念です。早すぎです…。

5.
見事なカムバックだったので、亡くなった時は非常にショックが大きかったです。
6.
道産子、近鉄バファローズ、そして若くして逝去。盛田さん(函有斗)、鈴木貴久さん(旭大高)が、北海道にプロ球団のある今、現役だったら、ファイターズももっと盛り上がったでしょう。
7.
私は中日のファンでしたけど、ふてぶてしいこの人の顔を写真で見て、現役時代の記憶が浮かんできました。
とにかく強気な人で危ないところへ平気で突っ込んでくる投手でしたからね。
亡くなったのは全然知りませんでしたが、顔を見ただけで記憶が蘇る投手って数少ないです。
8.
盛田さんはホント不運としか言いようがないね。

まだ2軍に居た時はそんなことがあったんだね。

若い頃に上司にモノを言うと生意気だと突っぱねられることは決して少なくはないからね。

こういうのを理解してくれる上司が居るか居ないかもこの世界で生き残れる要素なんだろうね。

小谷さんは巨人以外でも横浜やヤクルトでコーチもされているのを見たらいかに小谷さんへの評価が高いかと理解がある人なんだなと改めて感じたね。

横浜ではまだチームは下位に低迷していて優勝なんか遥かなる夢だったしね。

そして大矢さんと権藤さんが監督とチーフになって横浜が強くなってきた時に近鉄に行って皮肉にも横浜は翌年日本一だしね。

近鉄が最後の優勝を果たした時には盛田さんの体には既に病魔が居たしね。

9.
落合の天敵
10.
盛田投手と言えば漁師をしていた盛田投手のお父さんが海でアクシデントに見舞われた際にマルハの船に助けてもらった事が有ったそう。

盛田投手の大洋入りが決まった時は「これであの時の恩返しが出来る」と誰よりも喜んでいたそう。記録以上に記憶に残る選手になりましたね。

11.
函大有斗での度胸ある投球、プロ入りしても顔に似合わない太々しい配球が好きでした。
12.
引退後、解説者になるが、元々優しい性格だったので、選手に「〇〇さん」と敬称を付けたり、批判や苦言を言わない態度に、「現役時代の強気はどこ行った?お前はプロの解説者になれよ!」とアドバイスしたのが落合なんだよな
13.
良性の悪性転化だっけ?そんなやっかいなヤツもあるんだな。
14.
未だに地元では、
盛田幸紀杯が行われている。
とても大きな存在。
15.
盛田か、函館有斗にいた時は、球は早かったけど、体か細かったから、プロで活躍できるか疑問だった。大洋かドラフト1位でプロに入った時は、あそこまでの超一流選手になるとは思わなかったけど、あのシュートはピッチャーとしての気の強さがあったから投げきれたんだろう。北海道出身の記憶に残る選手だね。


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16.
盛田のシュートで散々内角をえぐられた後に、大魔神のフォーク。相手からしたらイジメみたいなものじゃないかなと思う。
17.
相手にデッドボールを当ててもふてぶてしい態度だったのが印象的
シュートボール使いらしい性格だった
18.
盛田ほど記憶に残る選手はいない。津田恒実や藤井将雄は現役復帰出来ずに亡くなってしまったが盛田は現役復帰且つカムバック賞を受賞出来た。バファローズの21番は岩隈よりも盛田の印象が強い。
19.
落合が最も苦手だった投手。
20.
古葉時代は全くと言って使われなかったが、須藤監督になってから使われ始め(90年は開幕2戦目に先発している。)92年に頭角を現す。

落合がヘルメットを地面に叩き付けたり、審判に「あいつは頭めがけて投げてきた!危険球じゃないのか!」と激怒しても容赦なくシュートを投げていたのが印象に残る。

パ・リーグは何故か「カムバック賞」を受賞する選手がめったにいない。盛田はその数少ないパ・リーグのカムバック賞受賞者なんだよな。

21.
スライダー2, シュート3, フォーク1, 最高球速148キロ、スタミナE, コントロールB。パワプロ5での盛田の能力。当時の所属球団は近鉄で、割と使える投手が多い中でたまに先発もさせられる投手として重用した。後日、まさかそんな投手だったとは知らず、たまに新聞で名前を見かける度に病気のことを思い出した、ことを思い出した。
22.
・・・大切に使ったか?

92年のタイトルは確かリリーフだけで130試合制で130イニング投げて規定投球回に達して、今なら酷使されて病気になったとか叩かれるくらい酷使されたよな。

病気もあって知名度が上昇したけど、病気は全く関係なく酷使されて短命に終わってしまって、一時期横浜が強かった頃は成績はガタ落ちして近鉄に放出されたよな。落合さんも正直セリーグ時代は成績下降していたし、

全部あと付けだよな。べつに小谷さんが悪いんじゃないけど情報操作はダメだよな。その3?4年くらいの全盛期が凄い成績だったのは本当なんだけど、日本人は死を美化しすぎる傾向がないかね。
23.
中日ファンですが、1997年のナゴヤドーム最初の試合でも先発していましたね。亡くなられた事は後から知りましたが、本当に勿体ないです。
24.
ある時落合に執拗なくらい内角を攻めて落合がめちゃめちゃキレた事があったな…。
25.
幼少の頃から大洋ファンの自分。
横浜大洋銀行と言われ、低迷していたけど、盛田、佐々木、野村、谷繁、進藤、石井が出てきてくれて徐々に勝てるようになってきた。
97年2位まで上がり、翌年こそは優勝というところで中根とのトレード。
結果98年優勝したものの、盛田にも優勝を一緒に味わって欲しかった。

亡くなってしまったけど、強気のシュートを忘れませんよ。
ただただご冥福をお祈りしています。

26.
小谷さんはすごい方ですね。2月1日、キャンプインの日に記者からの唐突な質問にここまで丁寧に答えるなんて…。本来はインタビューとして設定すべきで、記者のやり方は失礼だと感じました。
27.
しかし横浜時代、キャンプで深夜、若手を呼び出して酒を強制的に飲ませ、翌日の練習に支障をきたせるなど、幾多のパワハラで潰された選手が何人もいた。決して優しくて繊細ではない。
28.
盛田は落合をシュートでえぐり、藪は清原をシュートでぶつける。もう20年たったね。
29.
93年当時、パワプロ2 で遊んでいたがあのシュートとスライダーのコンビネーションには手を焼いたわ。
30.
脳に腫瘍があるなんて誰がわかるか…
あの当時横浜は波瑠の代役として中根を近鉄は佐野の代役として盛田をとそれぞれ必要な戦力として欲したトレード。
ほぼ全盛期の落合を抑えたのにはしびれました。もっと生きて欲しかった投手でした。


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