【本日よる放送】「金曜ロードSHOW!」でオンエア予定の『風の谷のナウシカ』ですが、宮崎駿氏による全7巻の原作マンガも、アニメと大きく異なる物語で読み応えがあります。アニメ公開から10年後に完結するまで、マンガ版は何を描こうとしていたのでしょうか?https://t.co/c5SUx9tk1Z
— マグミクス編集部 (@magmixjp) December 25, 2020
ネットの反応
クロトワファンとしてはだんだん『良い人』に変化していく姿がね。
ナウシカ単行本の7巻に「あらゆる利害調停のために神まで作ってしまった。」とあり、人類が生命を操作する技術の進歩の先に、超越者であるいろいろな神まで作ってしまったことが描かれています。現実的にも、スーパーコンピュータの進化により、利害調停のための「神」が出現する可能性はあります。
最後は、その中の「神」との対決になるのですが、ナウシカが「神」とのやり取りの果てに、巨神兵に命じて、「神」を闇に葬るシーンが圧巻でした。私たちの住むこの世界までもが、全て人工的に作られたものであったとしたら。。と、自分の存在が揺さぶられる漫画でした。
「自分は何者か。世界はどのように作られたのか。神とは何者か。自然界の生命はどのように作られたのか」など、いろいろ考えさせられる良い漫画だと思いました。
「人類によって作られた神」という発想が、非常に斬新でした。
映画のあとで漫画を再開、休止、再開を繰り返して完結している。巨神兵は漫画では最初の設定はロボットのようなもの(漫画1巻・ナウシカが残骸の中を上っていく場面)だったが映画を経て人工生物に変更した模様。
漫画はクシャナ、クワトロが俄然魅力的になる。
最終巻、ヴ王がナウシカを気に入る件が面白い。
「その世界の人類は~」は、漫画掲載の数年前にガンダムの富野監督がザブングルで出しているが、描き方が異なる。
お二人ともよく考えたなと思います。
まあ、残酷さはナウシカの人間像にも言えるところで、アニメでは父を殺された怒りと憎悪でトルメキア兵数名を惨殺する場面は、漫画版では造反の危険を疑われ蟲使い達にその身体を蟲に這わされると言う辱めに対する報復として、この蟲使い達を惨殺する場面になっている。
悔悟するシーンがあるとは言え、トルメキア参謀のクロトワをして「なんて奴だよ…。みんな殺しちまいやがった…」と閉口させる程。
人物として対極にあるはずの皇女クシャナよりも、ナウシカの方が苛烈であり好戦的かつ、自身の望みのためならば他者の命を重んじない面がある。尊ばないのではなく死ぬのを分かっていても死地に導くのがナウシカなんだ。人間の死に泣くのはクシャナの方が回数として多いのも特徴的だしね。
そう言う意味においても、物語終盤に彼女が背追い込む原罪も、漫画の方がナウシカの有り体が宗教じみている。
個人的には嫌いではないけどね。
どっちも好きだけどクシャナ殿下は漫画の方がかっこいいしクロトワのガンシップのシーンはイケてるおじ様すぎてかっこいい
トルメキアは絶対漫画の方が素敵(アニメ版の展開的に考えれば当たり前だけど)
アニメ『ナウシカ』の漫画との最大の違いは、巨神兵が都合よくあっさり自滅してしまうことだ。
アニメの物語は基本的に巨神兵をめぐる争いとして描かれている。クシャナは巨神兵を手に入れるために軍を動かしたわけだし、ペジテはそれに対抗するために王蟲を暴走させた。ナウシカがペジテの飛行甕を落として王蟲の幼虫を救ったことで暴走は止まり、
クシャナは巨神兵がポシャったので兵を引いた。すべて理屈が通っており、とくに奇跡だの神の御業だのが介在する余地はない。宮崎監督が嫌だったのは、キリストが湖の上を歩いているようなあのシーンによってこの作品が「宗教的」に解釈されてしまうことなのだろう。
しかしその一方で、「腐海が世界を浄化している」ことの意味や、その世界でこの後人間がどう生きていくのかという問題は、提示されただけでまったく答えが示されていない。
アニメ『ナウシカ』は要するに「話の途中」なのである。
ナウシカは漫画版を映画にして欲しい。
宮崎監督がやり残した事はそれだけだと思う。
ナウシカに関してはずっと気になってた。
映画版は勿論、それで素晴らしいのだけど、あの時代ではシン・ナウシカは受け入れられなかったと思う。
その後のアニメマンが試行錯誤を繰り返しシン・ナウシカを出来る土台は整ったと思う。
アニメ版に比べて残酷さも絶望も多々あり、非常に重たい印象のある原作版だが、意外にも「救いがたい悪人」といったキャラは出てこない。
土鬼の皇弟であっても結局は死と病の恐怖に歪んだ弱き人であり、クシャナが自らの命を賭しても討ちたいと思っていたヴ王も相応の度量を備えた人物で最後は自身を犠牲にしてナウシカの楯となって死んだ。
印象に残っているのは肉まんじゅうのような顔をしたクシャナの二人の兄たちが、会心したあとピアノの名演奏でナウシカを感動させ涙させた場面。ナウシカは腐海の植物が有毒菌類と化すのは汚染された土壌のせいだと気付き、「汚れているのは土なのです」と言ったが、ある意味人も同じなのかもしれない。
宮崎駿監督がこの作品が描いたのは、冷戦末期からその終結後に渡る混乱の時代であり、そこには作者である宮崎駿自身の世界観の変遷が表れている。
物語の結末でナウシカの下した決断は、読む人の見方によって善にもなり悪にもなる。その根底にある宮崎駿の思想は西洋思想とは一線を画すものであり、本書に一種の哲学性を与えている。
西洋思想に基礎を置く近代文明が綻びつつあるこの時代、この物語から人類が学べることはとても多いように思う。