障害を乗り越えた「超人」とたたえられるパラアスリートたちも、勝敗が明確に決する能力至上の世界で、悩み、苦しんでいた。
津久井やまゆり園19人殺害事件があぶり出した、逃れられない能力主義と、わたしたちはどうつき合っていけばいいのだろう。「障害者」と「アスリート」の両方に帰属し、「生きづらさ」と向き合うパラアスリートに学びたい。(川島 秀宜)
「水の女王」は、横浜市のスイミングスクールで黙々と練習に打ち込んでいた。パラ競泳の成田真由美選手(49)。9月の世界選手権と来年3月の選考会に、東京パラリンピック出場が懸かる。
1996年のアトランタから、シドニー、アテネの連続3大会で、15個の「金」を含むメダル20個を獲得し、いつしかその称号が定着した。
困難を乗り越える成田選手の「意志の力」は、安倍晋三首相の2013年の所信表明演説で、たびたび言及された。
13歳で脊髄炎を発症して下半身がまひし、車いす生活になった。脚が勝手に震える症状が練習中に表れると、中断してコーチが制止させる。
交通事故による頸椎(けいつい)の損傷で左手もまひし、後遺症で体温調整がうまくできないという。激しい練習で体温が上がるたび、バケツに張った冷水で首筋を冷やさなければならない。
練習は「楽しくない。苦しいですよ」と明かした。ゴーグルに涙がたまるほどだ。「でも、楽しかったら競技者じゃなくなっちゃう」
「弱者」と「強者」 共存するレッテル
「できないことがある弱者」と「身体機能を高めた強者」。「障害者」と「アスリート」に帰属するパラアスリートは、周囲からの矛盾する印象が共存していると、日本パラ陸上競技連盟副理事長の花岡伸和さん(43)は考える。
「健常者から勝手に張られるレッテルに、生きづらさを感じてしまうんです」
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190904-00010001-kanag-soci
ネットの反応
すでにオリンピック記録を超えている義足の走り幅跳びなどテクノロジーの進歩が印象に残る大会です。それも人類の未来であり希望でもあるが、そのうち故意に高性能な義足に変えるような行為が増えてサイボーグの大会にならないかが心配
障害者だけではなく、一般の社会人も優劣のある中で戦っている。
人に誇れ能力を持っているだけでも恵まれていると思う。
スポーツをどこまで突き詰めるかという話になると健常者も障害者も同じで犠牲にするものが出てくる。適度に楽しむことに満足できない人がさらなる上のレヴェルを目指して競技に身を投じるのだから。
生涯スポーツを楽しんでいる人たちはみな後から始めた人ばかりで元一流スポーツ選手はまずいない。五輪はどちらもある意味異常な世界で純粋にスポーツを楽しむというより勝つことに喜びを感じる世界。
「言ってみれば、自分は超がんばってきた凡人ですよ」……
どうしよう、この一言を読んだら、ずっと涙が止まりません……
やりたいからやってるんでしょ?
好きにすれば良いじゃないの!
やまゆり園の件は知的障害であって、手足が不自由な障がい者とは区別して論じた方が良いと思う。
この方々は、こうした競技に活路を見出して、日々努力と鍛錬を繰り返されている。
おそらく身体能力というか、鍛えた身体は常人では比べ物にならないくらい鍛えていらっしゃると思います。
ですが、だからといって日常の生活がそれで補えるわけではなく、そうした部分は不自由なことばかりだと思う。
すごい人たちだと尊敬する一方で、やはり健常者は彼らを労わる気持ちを忘れてはいけませんね。
義手義足などの驚異的な進化でちょっと競技の趣旨が変わって来ちゃった感はありますね。ただ与えられた条件の中、常に上を目指すのはどんな競技でも当然のことと思う。
ここでやまゆり園を持ち出すのは違うでしょ。
面倒くさい記事ですね。
生きづらいのならやめればいいのではないですか。
「超人」と言いますが、我々健常者から見てもオリンピックアスリートは「超人」です。
何度でも言いますが、嫌ならやめればいいだけの事です。
優劣だとかレッテルだとか、それこそ障碍者絡みの問題でいつも彼らが言ってる言われる「それも個性」「違ってていいんだ」って話だろう。
なんで逆行して障碍者の中にさらに「アスリート」「そうでない」「プロ」「普通の障碍者」とかカテゴリー分けして語りたがるのか。
パラリンピック競技をただ単に競技性の高いものとして評価するのは難しいと思います。
その人が健常者だった場合、オリンピックレベルの選手になれたかどうかという見方にもなってくると思います。
障害を乗り越えて、障害と付き合いながら競技を続けるというところにも意義があると思います。
競技性ばかりでなく、障害の度合いに応じたその人の頑張り方にも
評価が出来たらと思います。
読み終わったあとのモヤモヤ感たるや。
なんでことさら違いを見いだそうとするんだろう?
競技スポーツに打ち込む人達って、障害の有無に関わらず誰しもが文中の葛藤を抱えているんじゃないのかな?
障害者スポーツはリハビリの一環が始まりとは言え、パラリンピックは明らかに競技スポーツ。健常者でも競技スポーツに取り組む人は特異な存在。
これまで障害者スポーツを目にした時は、私ではいくらトレーニングを積んでも出来そうにないことをやってのける、その選手の能力に感嘆してきたけれど、それはパラリンピアンにとっては望まない評価なんだろうか?と考えてしまった。
嫌ならやめる 健常者も障害者も一緒のこと
こういうことが記事になることが、見る目。
この方々の努力に 「凄い」としか言えません。
障害を持っている人々が、一生懸命頑張ってきた結果が皮肉な事に…。
何を言っているの? 能力の低い障害者って何?
なんで、犯罪者の声を拾っているの?
障害者が一生懸命練習して競技者になること
素晴らしいことです。
何故?あなたたちが、障害者を一色単に
しようとしているのか?
障害者にも、個性があります。
パラリンピックに向けて、素直に応援出来る
環境つくりが必要です。
アスリート
ってそういうもんでしょ
嫌ならやめればいい
パラだろうが健常者だろうが関係ない
そもそもパラアスリートに特別の眼を向ける時点で、もう特別扱い。
期待に沿えない成績だったパラアスリートに罵声が飛ぶようになって初めてスポーツとして本物だ。
やりたく無くなったらやめれば良いだけです。世の中基本的に皆そう言う事です無理してやっても意味有りませんでも無理してやってその先に勝利とか栄光とか達成感とかも有ります。
生まれた時から能力主義ですこの世は全て健常者も障害者も区別無く能力主義社会に居るのです。外見上は頗る優秀な健常者でも頭の中は恐怖や不安、極度被害妄想、極度猜疑心、極度攻撃性などと一生付き合わなければならない人もいる様でこれもかなり辛い様ですよ。
正真正銘の健常者て本当に居るのでしょうか?誰にとっても生きづらいのでは?そう思えば少しは気が楽になるかも?
アスリートの方は、障がいのあるなしに関わらず、成果主義に対するプレッシャーや苦痛を抱えておられるのではないでしょうか。パラアスリートの方も、今となっては、十分にプロ(と呼ぶのは正しいのか分かりませんが)、責任のあるポジションにおられる方が多いと思います。
「障がいがあるから」というだけで、みんなを応援してくれる時代ではないと感じます。しっかりとしたスポンサーや後援会を持っておられる方も多く、多くの時間を割いて競技にかけておられます。
その意味もあって、私は彼らをリスペクトしていますし、日の丸をつけることの価値も健常者と変わらないと思います。もう、健常者・障がい者と分けて考えられる時代ではなくなっているのではないでしょうか。
反面、障がい者への殺傷事件については、抵抗できない中での事件ですので、悲しさがこみ上げてきます。今回、社会問題にもなったことで、更に議論を深める必要があると思います。
本当は障害者・健常者なんていう線引きがあることがおかしいんだよね。
義足の選手だってオリンピックを目指せるようにしたらいいのに。
何で態々行き過ぎた苦しさを自ら味わう必要があるのさ。
何もこれは身障者だけに限った話じゃない。
人間は『楽しい』があるから『苦しい』を乗り越えられる生き物なんだよ。
苦しさを乗り越えた先に楽しさがなければならない。
ただ、苦しいだけならやる意味は全くない。
自己満足が得られない行動はただ自分を追い詰めるだけだし、本当の意味で強くもなれない。
その人をそのままの姿で捉えて、その成果をその人なりに評価できれば、障害者に限らず周囲からの「レッテル」も無くなるのでしょうが、なかなか難しい。
むしろ「レッテル」を貼らないことを自然に出来る人のほうが少ない社会においては、周囲よりも自分自身が惑わされずに生き抜くことが現実的なのだろう。
ハンディキャッパーの方は外見が「レッテル」になるし、生活を営む上での手助けやサポートを必要とする場面が目立ってしまうため、自立していること、普通の人間であること、多様性をそのまま見てもらえず、
周囲を鏡として自分自身を見てしまうと、自己肯定感が低かったり、頑張りすぎて燃えつきてしまうようなことになってしまうのではないか。
パラリンピックという高みを目指す方においては、本人と周囲の本人像のギャップが大きくなりやすいと想像する。
ただただ、本人の努力と達成感を評してあげたい。
能力主義の陰で……。
何と悲観的な記事だろか、話題を作り記事にしたいのかも知れませんが、想像力が有り過ぎて話を飛躍させ過ぎ、大袈裟に構え過ぎだと思います。
障害者に能力は無い生きる資格は無いと凶行に及ぶような人間が、日本国内に何万人何十万人いると言うのでしようか?
日本国民のほとんどの人は、障害者を差別的な目で見ていないと思います、いや、むしろ好意的に接したいと思っている人ばかりだと思いますよ。
パラリンピックに出る障害者は特別な人です。普通の障害者に比べると偏見の対象になります。つまり、障害者として弱者と見ても良いのか?疑問が残るのです。
健常者でもダメなやつはダメだよ
そもそも「津久井やまゆり園19人殺害事件」は話題として持ち出すべきでは無いと思うが
ルールの中で全力で争えることと普通の生活は違うもんだからしゃーない
ある。友人の話だが、今の福祉行政は個人のやさしさの上に成り立ってると、今後、高齢化社会になって全員に満足な行政が施行されないと、どうなるのだろう。
一部の方々だけが手厚い福祉を受けていることが、理解されるのか、人は自分たちに負が及びそうになると、やはり自己を優先する。昔の乳母捨て山、障害者の間引きがいつ始まるか解らないと、言ってたのを思い出した。 今はまだ平和な記事だが。