ネットの反応

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結果が見えている今だから、余計にこの一言が痛烈に後悔として残っているのだろうし、それをオープンにされたこの方の覚悟のようなものが伝わってくる気がします。亡くなった息子さんが見つかって喜ぶという心理状況も又、震災の中での特別な心理状況なのでしょう。非常に学ぶことが大きかったです。
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自分に子供が出来てから、このような経験をされた方の記事を見ると胸が張り裂けそうになる。
同じ立場に置いて想像してみると、自分なら自殺してしまうぐらいショックだと思う。
それだけ子供という存在は、仕事を頑張る理由だし、生きる意味になっています。
見つかった時に喜んだと言ってはおられますが、本当は泣きじゃくって死にたくなるぐらい辛かったんだろうな…と、涙目になりながら読ませていただきました。
東北へは震災の時に、復興支援で約1ヶ月行っていただけに、他人事のように見れない自分がいます。
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これ、ホントコメ主の言う通りだなぁと思う
言わなければ多分だれも分からないが
あえて言う。そこに息子が犠牲になった事への自分への戒めもあるんだろう
この日だけじゃなく定期的に東北、九州(熊本)、北海道、色々と地震以外にもあるが定期的にニュースにして欲しい。

1-3
私は当時、 相模湾の海沿いに住んでいた。
目の前は海。 ずっとテレビをつけて情報番組を見ていたが 画面の右下に小さく日本地図が出て
東北から関東 沿岸の 地域が黄色点滅、この地域の人は津波の恐れがあるから避難してくださいとずっと注意が出ていた。 どうしようかと思ったが、 外は暗くなってきてまだ寒くて 外に出る気がしなかった。
周りも騒いでる様子はない。 大学で家を出ている娘から電話があり 友達の家が来ていいって言ってるから避難してと大騒ぎしていた。 大丈夫だよと言って私は居座った。津波は たまたまそこには来なかったが、場合によってはこの息子さんと紙一重の状態だったかもしれない。
あとから他人事のようにして聴くとなぜ避難しなかったと思うだろうが、 その場にいる人間は そんなもんだということを身をもって知った。
無知とは恐ろしい。 知ることが必要。
1-4
田舎なので高齢者が多かったと思います。
映像を見ると逃げ遅れすぐそこから別の所からと波が押しよせています。
高台から悲鳴をあげながらもっと早くとの声が聞こえます。
本人は急いでいるつもりでも高齢になるとそんなに早くは走れません。
あの時は助かった高齢者でも初めての事だといいます。
まさかあんな大きな津波がくるとは誰も思っていませんでした。
馴れてしまい高齢になる程過信しがちです。
臆病になった方がいいかも知れないですね。
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東北のどこの地域だったか、昔の人が残した、この下に家を建てるな、という石碑があり、それを守った地域が助かったとか。
経験者の語り継ぎが何世代かすると忘れ去られてしまうケースはある。
原爆とかでもそうだけど、体験した人でなければ伝えられない言葉があると思う。
自分のように後悔してほしくない、という強い気持ちを感じました。
災害時には運もあるけど、ほんの少し知識があったことで助かることも。思い出すのも辛い体験だろうけど、この方の生き甲斐になっているのだろうと思いました。
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この人がこのお話を聞いて、なんで逃がさなかったとコメントされる方の「心理状態」はどういったものなのでしょうか。それを強く後悔としてもっているからこその語り部の活動なのだろうし、なんで?という問いかけはこの方が何度も自分自身に対してしていると思う。無知は恐ろしい。しかし、非日常が突然起った時、例え正しい知識はあっても完全に活用できるかと言えば疑問です。人はどこかで見たくないものを見ないようにするし、楽観的に考えようとする生き物だと思うからです。そういう部分もひっくるめてオープンにされているのが自分には覚悟として感じられたのです。
1-7
昔、大学の授業で津波は仙台平野を何キロも遡上したことがあるって習ったことがあって、実際にそうなったけど、実際の津波の痕跡を見たあとでも、まだ信じられない気持ちになりましたね。
リアス式海岸の地域ほど津波の脅威は言われて無かったし、仙台近郊で新しい住民も多かった地域なので、震災前は危機感はなかったのだと思います。
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あなたがそんなこと言うから、絶対そう言ってくる下品な連中がいると思う。
でも、その傷より、もっと大きな傷があるのだろうなと。
それを癒すには、この人は語り続けることだったんだろうと。
12年間も苦しかったんじゃないかな。
もちろん後世に伝えたいという思いもあるだろうけど、それ以上に辛くて辛くてたまらないんだろうな。
少しでも語ることで癒されるように祈るばかりです。
1-9
そんな海から1キロも離れた所に、巻き込まれて死んでしまう程の大きな津波が来るとは思わないよね。
他人事だとは思わずに、自分も気をつけて、いつ大きな地震が来ても大丈夫なように、後悔しないように、家族と話し合いたいと思いました。
1-10
震災に遭われた方々の話を聞くと、何年経っても涙が出てきます。きっと多くの方々が、後悔と自分だけが助かってしまった懺悔の気持ちは死ぬまで忘れられない。
その中で前を向きこの12年間頑張ってこられた。

3.11は今も尚、日本人に多くの事を考え学ばされます。

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すぐに逃げろと声をかけていたとしても、みんなが甘くみていた津波から正しい場所に避難できたとは限らないお母さんの一言で、その瞬間ホッと落ち着けて怯えすぎずに過ごせたかもしれない

わからないし、そんなこともう何度も何度も考えただろうけど。。。

今のお母さんの姿を、誇らしいなとみていてくれるといいですね

ジャンプ、私だったら毎週新刊が読めるのはとても嬉しいと思います

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津波は、海岸線からの距離なんて無意味なんよね。(´・ω・`)
標高が重要。
海岸沿いでも、鉄筋の高いビルに逃げれて生存した人はたくさんいる。名取市はnhkの津波に飲まれる空撮映像が有名やけど、奥までずっと低地で高台は存在しない。

大川小学校も北上川近辺のデルタ地形、扇状地で、5km海岸から内陸という安心感もあって、避難がもたついた。

海岸線の距離なんて無意味、奥ににげる暇があるなら、標高をかせぐのが鉄則(´・ω・`)

低地なら大津波は海岸線から5kmやろうが10kmやろうが全て飲み込む。

2-2
難しいのはこの3月9日と3月10日にも地震があっていたこと。
また、その際には実際に大した津波が来なかったこと。
大川小の件といい、どこか自分に都合の良い方向に考えてしまったのかもしれませんね。
2-3
JUMPは息子さんのお部屋というより例えばですが近所の子とか誰でも閲覧できるような場所に置いて活気があるといいですよね。そうやって東北に暮らしながらも地震や津波を知らない子どもたちとも繋がりが持てたらいいかなと思ったりしますね。
2-4
素敵なお話だけど本の重みが気になる。
そろそろ2階の床が抜けてしまわないか親戚の方は時々見てあげて欲しい…
2-5
優しい解釈で、とても救われた思いがします。息子さんを失ったお母さんも、そういうふうに考えられたらよいです。
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津波が来る1時間ほど前に海岸で白髪の老婆が津波が来るぞと一心不乱に叫んでいたそうな。
しかし通る人は皆、気がふれた老婆と思い無視したそうです。
今度あなた方がその老婆を見ることがあったら一目散に高台へ逃げることです。
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逃げろって言ってたら助かったでしょ
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防災に大切なのは「大丈夫だろう」ではなく、最悪の事態を想定して必死に動くということだと思います。この方は大切な息子さんを亡くしてしまいました。もう後悔してもしきれないと思います。多くの人々にこの事実を伝え、何か災害が起こったときには最善を尽くして身を守るということをしなければならないという教訓を伝えてほしいと思います。

3-1
>防災に大切なのは「大丈夫だろう」ではなく、最悪の事態を想定して必死に動くということだと思います。あちこち行くことの多い私は、ホテルや旅館に着くといつも自分の部屋から非常口までの経路を実際に歩いて行ってみます。そして、非常口はどうすれば開くのか(実際には開けませんが)も確認しています。同行人にはバカにされることも多いですが、いざというときに知っているのといないのとでは全然違います。

飛行機にもよく乗りますが、乗った時の説明も見ていない人が多いようにも感じます。積んでいる救命胴衣も航空会社によって微妙に違い、取り扱い方も異なるのに。街中の交通事故もそうですが、「どうせ起こらない」という意識の人が減らない以上、こういうことは繰り返されていくのだろうと思います。

3-2
津波が大きかった宮城や岩手は津波常襲地帯で防波堤もしっかり整備されていたので気象庁の6メートルなどといった津波予想だったら大丈夫だと思っても仕方が無いと思いますが、それが命取りになってしまっただと思います。東日本大震災以降も最近相次ぐ豪雨災害では、気象庁の予想の2倍3倍もの雨が降ったりしています。やはり津波や地震であっても豪雨であっても災害時は想定外が起こりうると思うべきだと思います。
3-3
本当に後悔してもしきれないでしょうね…。
自分を恨んだだろうし、今も恨んでるかもしれません。私はネガティブ思考なので常に最悪を考えるタイプですが、でも幾度となく地震を体験しその都度津波は来なかった…大丈夫だった…という経験をしていたら、この方と同じ言葉を発していたかもしれないです。
この話から私も学習して、自分の今後に活かして行きたいと思います。

3-4
2011年3月9日。東日本大震災の2日前に、同じ震源地で大震災の前震があった。そのときも大きな地震だった。津波注意報が発令されたが、たいした被害はなかった。それで、津波を甘く見た人が多く、被害が大きくなったのかも知れない。当時は、大地震の前震という言葉が一般的ではなかった。熊本地震から注目されるようになった。
3-5
あの日からもう12年も経ったのですね…あれほどまでの高さの波が壁のようになって町に襲いかかってくるなどとは(それまでに見た事も経験した事もない規模だったので)想像することができなかった方々が多く、それ故に犠牲者が多く出てしまった悲しい出来事だったと思います。

私自身、あの日TVでみた地獄絵図のような信じ難い光景は一生忘れないと思います。

自然災害を決して甘く見ずに最悪のことを想定して日頃から備えておくことの大切さを教えてくれた大震災だったと思います。

3-6
防災以外にも、車の運転や乳幼児の世話、医療の現場など、命に直結するものは全て、「だろう」ではなく、「かもしれない」が大切。
未曾有の大震災ではたくさんの方が亡くなり、その悲惨さから語り継がれるけど、命を落とすのはどんな場合でも悲惨。
確率としては、災害以外の場合も十分に高い。
たぶん大丈夫だろう、という慢心の元で落とされてしまう命が減ることを祈るばかり。
3-7
>津波なんて来ないから、コロナになんてかからないから、地震なんて来ないから、戦争なんて起こらないから、一見平和的な考え方ですが、こういったきっちりと将来を見据えようとしない甘い考え方が後々に不幸を招くことはいくらでもあります。人間はある程度運任せなところがあり、たぶん大丈夫という判断で物事を決めていますからね···。
全部に全部細心の注意を払っているとメンタルが崩壊するからです。
そして神経質すぎる人の言動はイライラすると言われ煙たがれたりもしますのでそれを自分でも無意識にやらないようにしようとしてしまう人も多いです。
ただ、私は少しでも命に関わることなら神経質すぎるくらいな対応が調度いいのではないか?と思うようになりました。
過去にそれで失敗して死にそうになったからです。
人間は実際に自分が命に関わる様な被害に遭わなければそのことに気付けない生き物だと思います···。

3-8
津波が壁のようになって襲ってくるとコメントしている人がいるが、そういった勘違いも、被害をさらに大きくしている要因だと思う。津波は、水位が突然上がって流されるイメージ。なので、海面の映像などが中継されていても防波堤を越えなければどれほどのものか分かりづらい。さらに、太平洋上ではジェット機並みのスピード、陸上でも100m10秒ぐらいで迫ってくる。変化に気づいた時には遅い。多くの人に正しい知識を身につけて欲しい。
3-9
地学で地震もやったときに津波の計算方法も習ってテストにも出たけど、やったのは3年のときの選択科目で、1年だか2年だかの必修での地学しかやらなかった旦那は習わなかったと言ってた。
プレート地震の計算問題は中学でやるけどね。
そんなに難しくないし、少し触れるだけでも地震大国の日本では違うんじゃないかなと思う。
授業で習ったとき、かなり短い到達時間になる例でやらされたので「これ、計算してる間に津波来ちゃうじゃん」とボヤいたら先生に「今はわざわざ人が計算してるわけじゃないから」とツッコまれつつも「とはいえ、考えてる暇があるなら先ず逃げろって事です」と言われたのは最良のアドバイスだったと、311があって痛感しました。
3-10
当時、北海道南西沖地震やスマトラ沖地震のことをよく見ていて、震源地と揺れの大きさ等からして30m級の大津波が来ると予想した人もいれば、3Mぐらいの津波だろと思った人等、色々な人がいたと思う。
少なからず今言えるのは、11年前に起きたことを忘れずに後世に伝えていくことだと思う。
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災害も戦争も生き残った人たちに後悔が必ず残るものなのだと歴史は教えてくれます。その後悔をしていけないものでなくて、未来の人たちが同じ苦しみや悲しみや絶望をまた感じないために、命を守るために繋いで行かなければならない事なのだと思う。100年経っても千年経っても、繋いで行かなければならない。私達が生きている間は、絶対に忘れてはならない。
4-1
熊本地震の本震の時は、津波注意報が出た後停電になりパニックになりました。車で避難しようとしましたが既に大渋滞で動けず、なので車を乗り捨てて高台へ避難しました。結果的には津波もありませんでしたが東日本大震災の津波被害の教訓から高台への避難はすぐに実行できました。

4-2
大きな揺れがあったら
先ず【津波てんでんこ】
大切な人を心配するのは自分が高い所に避難してから
家族と共有して肝に銘じます。
4-3
正論と思うが、何故戦争が無くならないのでしょうか
4-4
災害と戦争は違うだろ。ウクライナがあるから戦争とか関係ない事を出して来たのか、しょうもない稚拙さ。
4-5
人間に喜怒哀楽があるから、喧嘩も口喧嘩ですめばいいが?戦争も国民が選んだ人が始めるから何もいえねー
5
もし自分が同じ状況にあったら、あの時なら同じことを話してしまっているかもしれません。あの時こうしておけば、こんなこと言わなければという事は、誰しもあることだと思います。

忘れないのが一番の供養だと思います。
でも前を向いて歩いていく事も大事。

そういう意味で語り継いでいってあげている姿は凄いなぁと思います。

5-1
> 今は兎も角、当時は津波に対する警戒心が日本には皆無だったからねまったくそんな事はない。東北は警戒されていました。その証拠に津波避難施設や10mを超える防潮堤も建設されたり計画もありました。津波に備えた避難訓練もされていました。
ネット上に震災時の津波避難施設等の利用状況がありますので参考にして下さい。

5-2
自分は子供の頃砂浜の奥にある防波堤とテトラポットを「なんでこんなとこに作ってるんだろ?波なんて来るわけないじゃん」と思ってた。
12年前の今、その防波堤は津波で壊され、テトラポットは陸地のど真ん中まで流された。こんな事があり得るのか・・今も信じられないでいる。このお母さんの気持ちはまんま自分だ。もし家が沿岸だったら家にいた親は亡くなっていた。

5-3
これは間違いなくデカいのが来ると思って遠くよりなるべく高いところへとルートを考えながら逃げたが、この感覚は人によって違うから仕方がないこと
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チリ地震以後、あの地域は地震と津波はセットだったはず。どんな根拠で津波は来ないと言うんだろう。地震教育を台無しにする。
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気象庁津波課長、長崎転勤でしたな。最初の情報は津波の予想高さ低かったもんな。

5-6
津波って、一回ザブーンと大波が来るイメージでした、あの日までは。
巨大なコンクリートの塊が街を飲み込み
全て壊していくのだと、思い知りました
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今は兎も角、当時は津波に対する警戒心が日本には皆無だったからね