レスリングや総合格闘技で活躍し「神の子」の愛称で親しまれたプロ格闘家の山本KID徳郁(やまもと・きっど・のりふみ、本名・岡部徳郁=おかべ・のりふみ、旧姓・山本)さんが18日、亡くなった。まだ41歳だった。
KIDさんは、主に2000年代最初の10年間に活躍、打撃系「K-1」のスターだった魔裟斗(まさと)さんと並んで、若者の間でカリスマ的な人気を博し、プロ格闘技の世界をけん引した。【小座野容斉】
◇軽量級に光を当て
KIDさんの一番の功績は、軽量級のプロ格闘技に注目を集めたことだ。KIDさんと同じ総合格闘技イベント「HERO’S」で活動した所英男選手は18日、KIDさんの訃報に接し「KIDさん。KIDさんがいたから、
たくさんの総合格闘技の軽量級選手が世の中に出て、格闘技で食べていくことができました。みんなの恩人です。心から感謝しています」とツイッターで投稿した。
その通りだった。日本のプロ格闘技は1990年代から少しずつ人気が出始めていたが、当時はプロレスから派生した団体や興行が主流で、
ヘビー級の選手ばかりが注目を浴びていた。しかし五輪のレスリングや、プロボクシングを見ればわかるように、
日本人選手が一番活躍しているのは50~60キロ台の軽量級だ。本来、レベルの高いこの階級に光を当て、一般ファンの関心を集めた。
身長163センチ、体重60キロそこそこで、スピードあふれるスリリングな攻防を見せたKIDさんは、ヘビー級選手がそろった大会でも、軽量級の選手がメインイベントを務められることを証明した。
客層も変わった。1990年代までは、プロ格闘技の大会は、比較的地味な服装のコアな男性ファンが、観客の中心だった。KIDさんや魔裟斗さんの出場する大会は、カラフルな衣装に身を包んだ若い女性観客が多く詰め掛けた。
◇「かっこよすぎる」秒殺KO
KIDさんの選手としての特徴は、レスリング出身ながら打撃を得意としたことだ。実戦的な動きで、独特の「当て勘」を持っていた。
KIDさんの代表的な試合の一つが、恒例となっていた大みそかの格闘技イベント「K-1 プレミアム ダイナマイト!!」での魔裟斗さんとの対決だ。2004年12月31日、相手の土俵「K-1」のルールで戦う不利な状況の試合で、
1ラウンドに左フックでダウンを奪った。この試合は結局、判定で敗れたが、打撃系格闘技では屈指のテクニックを持つ魔裟斗さんと互角に勝負したことで、KIDさんの名は一段と高まった。
この年までは元横綱の曙さんの試合が、メインイベントとなっていたが、翌年大みそかの「K-1 ダイナマイト!!」では、KIDさんと須藤元気さんの試合が、メインイベントに選ばれた。
KIDさんのもう一つの代表的な試合は、06年5月3日の「HERO’S」大会での宮田和幸選手との対戦だ。
宮田選手は2000年シドニー五輪のレスリングフリースタイル代表で、「隠れたメダル候補」と言われていた。
組み合わせが悪く予選で敗退したが、全日本選手権で3回優勝した実力は折り紙付きだった。五輪は63キロ級で出場したが本来は69キロ級の選手で、
KIDさんより一回り大きい。「宮田と組み合ったらKIDでも勝ち目がない」という予測もあった。
KIDさんは試合開始のゴングと同時にダッシュすると宮田選手に跳びひざ蹴りを浴びせた。左ひざは宮田選手のあごを直撃した。さらにKIDさんのパウンドパンチを一発浴びた宮田選手は半失神状態となり、レフェリーは即座に試合をストップ。開始わずか4秒でKIDさんのKO勝利となった。
「レスリングで五輪に出た選手は、生き物として違う」と語っていたKIDさん。試合3日前の夜「タックルで捕まえられたら勝てないが、上に跳び上がれば捕まえられない」と跳びひざ蹴りがひらめいたという。
さらにこのひざ蹴りには、KIDさんの工夫があった。通常のひざ蹴りは当てる方のひざだけを曲げるが、
写真でもわかるように、ヒットの瞬間KIDさんの両ひざが曲がっている。これは最初に右ひざで狙うと見せたからだ。
右ひざに反応してダッキング(上体を前に屈めるようにして打撃を避ける動き)した宮田選手のあごに、遅れて出したKIDさんの左ひざがクリーンヒットしたのだった。宮田選手は下あごを骨折、救急車で搬送され、その後長期の入院を余儀なくされた。
リングの上で、1972年ミュンヘン五輪代表の父・郁栄(いくえい)さんに祝福されたKIDさんは、マイクを取ると「ヤバイ。俺、かっこよすぎる」と場内に語りかけ、ファンを熱狂させた。KIDさんの選手として最も華やかな瞬間だった。
◇五輪への挑戦、そして衰え
KIDさんの転機は、宮田選手を鮮やかなKOで破った後に訪れた。同年7月に、総合格闘技を休養して、
レスリングで08年北京五輪への出場を目指すことを宣言したのだった。山本家は、父・郁栄さんだけでなく、姉の美憂(みゆう)さんは世界選手権で3回、妹の聖子さんは4回も優勝したレスリング一家だ。
プロ格闘技で実力と華やかな人気を誇っても、レスリングでは、1999年の全日本選手権2位が最高の成績。五輪にも世界選手権にも無縁だったKIDさんの心には、どこか満ち足りないものがあったのかもしれない。
しかしKIDさんの夢はあえなくついえる。07年1月の全日本選手権でアテネ五輪銅メダルの井上謙二さんと対戦し、投げ技を仕掛けられた際に右ひじを脱臼してフォール負けした。この負傷が長引き、その後の五輪出場に必要な大会に出られずに、挑戦は終わった。
総合格闘技の大会に復帰したKIDさんを、左手首の骨折、右ひざの靭帯(じんたい)断裂など負傷が襲った。年齢も30歳を越え、敗戦が続いた。
衰えは明らかだった。同じ頃、共にプロ格闘技界をけん引した魔裟斗さんも現役を引退、テレビのゴールデンタイムから格闘技の中継が消えていった。KIDさんは2011年から、活動の場を米の「UFC」に移すが、ここでも負傷に苦しみ、勝利を得ることなく終わった。
◇ ◇
KIDさんのプロ格闘家としての活動は、全国紙の運動面を飾ることは無かった。所属した「HERO’S」では世界王者に輝いたとはいえ、イベントはすでにない。
大相撲の横綱・白鵬関や、レスリング女子の吉田沙保里選手のような、歴史に残る業績は残念ながらない。ただ、人々の心に強い記憶を刻み付けて、駆け足でこの世を去った。
まさにフォークヒーロー(民衆の英雄)というべき存在だった。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180920-00000058-mai-fight
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