女子マラソンの夜明けを駆け抜けて 増田明美さんが伝える挫折と成長の経験女子マラソン草創期の1980年代、増田明美さんは高校生ランナーとして、すい星のように登場した。この競技が初めてオリンピックの正式種目になった84年ロサンゼルス五輪の日本代表に選ばれ、20歳で出場したものの、途中棄権。
心身の不調から復活して競技を続け、28歳で引退したが、そのラストランを疲労骨折で棄権する無念も味わった。大きな喜びの先に待っていた挫折の体験をばねに、今はスポーツジャーナリストの仕事を中心に幅広く活躍する増田さんに、競技人生と健康の問題を聞いた。
増田さんは前回の東京五輪・パラリンピックがあった1964年生まれ。故郷は房総半島の千葉県岬町(現いすみ市)だ。軟式テニス部員だった中学1年の秋、町内一周駅伝大会に助っ人ランナーとして出場したのが、陸上を始めるきっかけだった。
「高校生のお兄さんたち3人をごぼう抜きにして、チームは優勝。走るのは退屈だと思っていたけれど、学校で校長先生が褒めてくれたのがうれしくて、興味を持つようになりました」と笑う。
両親は専業農家で、子どものころの遊び場はミカン畑のある山。小学校までの2.5キロを歩いて集団登校し、中学までの5キロは自転車通学。
自然と鍛えられた足腰は人並み外れて強かった。「少女漫画の『エースをねらえ!』に憧れて入ったテニスでは、才能はなかったけれど、どんな球でも追いかける粘り強さはありましたね」。やがて陸上に専念すると、800メートル走の全国レベルのランナーとして頭角を現した。
陸上の強豪だった成田高校の滝田詔生(つぐみ)監督にスカウトされ、入学して監督の自宅で下宿生活を始めた時、身長は150センチ、体重は38キロ。
「それまで楽しんでやっていた陸上に、専門的な練習メニューで本格的に取り組むようになったので、伸びしろがあった。名門なのでライバルもいる環境で、競技に集中できました」
猛練習を重ね、3年生になると、トラックの3000メートル、5000メートル、1万メートル、ロードの10キロ、20キロ、30キロと、日本記録を次々と塗り替えた。「天才少女」と呼ばれるようになった。
引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00010000-jij-sctch
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