【鯉と鷹の物語】(5)

広島の抑え投手として活躍後、病魔と戦ったのが「炎のストッパー」として知られた津田恒美氏だ。社会人・協和発酵からプロ入りした1982年に11勝し、新人王。闘志あふれる投球が持ち味で86年に抑えへ転向し、89年には40セーブポイントをマークして最優秀救援投手となった。

91年の開幕後に頭の痛みを訴え、治療に専念するため同年限りで引退。福岡市内の病院へ入院した。広島のかつての同僚で、同い年で仲のよかった森脇浩司内野手は当時ダイエー(現ソフトバンク)でプレーしており、親友の見舞いへ足しげく通った。

一時期、快方へ向かった津田氏は「俺、ダイエーへ入れるんかなあ」と森脇氏へ再起の夢を語っていた(津田晃代著『最後のストライク』)が、オールスター戦が東京ドームで行われた93年7月20日、脳腫瘍のため、32歳で死去。もう一度マウンドへ立つ夢はかなわなかった。

津田氏と左右のダブルストッパーとして活躍した広島の大野豊投手は「投手には珍しく優しくていいやつ」と早すぎる死を悼んだ。(浦)


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ネットの反応

1 :よっちん:2018/11/02(金)01:23:28
津田といえば、威力のあるストレートとフォークでした。カープの一英雄としてその活躍は受け継がれていくのですね。
2 :ウジテレビ:2018/11/02(金)00:54:27
福岡済生会病院といえば津田を看取った場所というよりも昭和の大スター美空ひばりが入院していた場所だよな
3 :hir*****:2018/11/02(金)00:48:54
森脇さんは津田さんのベッドの横で「俺の年俸を半分にしてでもお前を広島に復帰できるよう首脳陣に掛け合ってやる」と言ったらしい。
4 :age*****:2018/11/02(金)00:45:21
子供の頃、協和発酵で津田さんとバッテリー組まれた方に野球を習いました。一生忘れられない思い出です。
5 :bar****:2018/11/02(金)00:43:18
大野豊のコメントを見ると、投手は小山の大将なのかと思う。
6 :hom*****:2018/11/02(金)00:30:48
投手には、珍しく優しくいいやつ。背番号と共に、大瀬良が、受け継いでるよ!
7 :dai*****:2018/11/02(金)00:24:46
マウンドで跳ねるような豪快なピッチング。あのバースをストレート連投で空振り三振「津田はクレイジー」と言わせた。原辰徳がファールを打った時、衝撃で手が折れた。あのシーンはショッキングだった。オールスターの時に訃報を聞いた時は呆然としたのを覚えてます。


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8 :hap*****:2018/11/02(金)00:22:56
弱気は最大の敵津田恒美が常に口にしてた言葉この言葉って人生の全てに通ずる言葉って40過ぎて知った自分が恥ずかしい
9 :usc*****:2018/11/02(金)00:20:53
和田中、南陽工業、協和発酵、カープ。山口と広島にゆかりがあるけど、福岡も近いからね。
10 :甲府:2018/11/02(金)00:19:37
森脇さんの紹介でお見舞いに訪れたカズ山本さんは、変わり果ててしまった津田さんのお姿を観ながら涙をこらえて「絶対にダイエーのストッパーになれるで!」と激励をされ、部屋を出てから泣きじゃくったのだそうです。
山本さん&津田さんは現役時代から大好きな野球人でした。南海&広島は、昔から色々と縁の深い球団。何とか一試合でも多く、素晴らしい戦いを見せてほしいです。
11 :涼宮ハルヒ:2018/11/02(金)00:17:55
たらればだけど津田さんは病気にならなければもっと凄い抑えになったと思うあと森脇さんの対応には感動した
12 :nyy*****:2018/11/02(金)00:13:03
『弱気は最大の敵』最も好きな言葉の一つです。
13 :oxy*****:2018/11/02(金)00:12:46
インパクトある人生でよく覚えている
14 :tak*****:2018/11/02(金)00:12:38
今この記事が配信されてもなぁ…。もし津田さんの病気が治ったら、カープで再契約していたと思う。ただ、選手というよりも裏方でだったとは思うけどね。
15 :ank*****:2018/11/02(金)00:09:34
こいつってケロイドの中で美化されてるだけだからな成績は大したことない
16 :tmi*****:2018/11/02(金)00:08:09
森脇の結婚披露宴には亡き津田の席が用意されていた…
17 :hin*****:2018/11/02(金)00:08:00
防火扉かな


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