元ひめゆり資料館館長・本村ツルさん死去 97歳 戦争語り継ぐhttps://t.co/36GIgFb4C2
戦後は約35年にわたり小中学校の教師を務めました。退職後は資料館の開館準備や運営に奔走し、2002年から10年まで館長でした。
— 毎日新聞 (@mainichi) April 9, 2023
ネットの反応
戦後世代の私が何かコメントできるものでもありませんが、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を一読されることをお勧めします。
ひめゆりを引率された当時の沖縄師範学校教師(後の琉球大学教授・言語学者)の仲宗根政善先生の著書です。文庫本も出ていますし、学徒隊がどのような経験をしたのか、とてもわかりやすい文章で書かれていますので、是非。
ひめゆり学徒隊の生存者も、もうあと数名しかご存命ではないのではないでしょうか?
本村さんの力強い戦後の活動に、深く敬意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。
大学生の頃、デパートで「ひめゆりの乙女たち展」を見に行った。まだ十代の少女達が、戦争のために、青春の全てを捧げて命を落としていった記録だった。
生まれた時代が違うだけで、こんなに悲しい運命なんだと、不条理に思えた。
でも、考えてみれば、21世紀になっても、ウクライナの若者達は戦火の中に居る。
「戦争は過去の悲劇」ではなく、今も続く悲劇。
自分の人生に戦争は無かったが、これから生まれる日本人にも、いや、世界の人達にも、戦争の無い時代を謳歌させてあげたい。
戦争を語る方がまた
なくなってしまったけど祖父母は今で言う中学生の時に戦争になりました。
祖母は疎開であちこち転々としたそうです。祖父は兵隊さんにご飯を用意する係として駆り出されました。
芋やアワヒエ粥では足りず、しゃもじについたご飯で飢えを凌いでたそうです
戦争のニュースや終戦記念日になると体験を教えて「あんた達にそんな事させないし、してほしくない」って言ってました。
今の子祖父母も戦後世代だから、どんな形でもいいから残さないとダメだと思います。
高校の時に、当時60代だった本村さんをお招きした講演を聴きました。
その後修学旅行でひめゆりの塔へ。
チャラついた女子校でしたが、そこでは全員が真剣な面持ちだったのを覚えています。「亡くなる時にね、天皇陛下万歳なんて言って逝く方は1人もいなかった。みんな最後は「お母さん…」って言って息を引き取るのよ」
という本村さんの言葉が今でも忘れらません。
戦争の悲惨さを知って覚えておくのは、実体験された方の生の言葉を聞ける私たちの責務だと、戦争なんて関係ないと思っていた子供の私の考え方を180度変えてくれるきっかけになりました。
本村さんのご冥福をお祈りします。
戦争体験者特に沖縄の激戦地で生きた人が亡くなるのは後世に戦争を伝える人がいなくなってしまうということだ。
今の団塊の世代以降の高齢者は戦後生まれの高度成長期を生きたから平和な時代しか知らない。戦後レジュームからの脱却などとカムフラージュし、実際はまた戦争に突き進もうとしている自民党政権を支持してはならない。
仲宗根先生がお亡くなりになった28年前、数カ月後に祈念館で本村さんにお会いしました。
仲宗根先生が館長をされていたけど、晩年は体調を崩されていたなど、いろんな話をして頂き、まだ若かった私になぜそんなに詳しいのか嬉しそうな笑顔で対応して頂いた事が忘れられません。今頃はご学友の皆さんと再会されている事でしょう。ご冥福をお祈り致します。
ヤフコメがまともなコメントが多くて安心している。他のひめゆり学徒隊も本村さんも、天国で喜ばれていると思います。
沖縄を見下すのではなく、寄り添う姿勢がないとこれから関係性を維持することはどうみても不可能。
このような意見が増えることを望む。
20年くらい前にひめゆりの塔に行ったことがある。
戦争の愚かさを学んだ初めての体験だった。
昨今、戦争に巻き込まれつつある事態を私は憂いている。
大人になっても沖縄に行ってないのでそろそろ行ってみようかなと思う。
学校での授業でしか戦争を知らないが、それでも小学生のころ、授業ではだしのゲンを見て涙が止まらなくなってしまったのを覚えている。
未だに世界から戦争が消えていないことをどう思われていたのか。
考えると切なくなる。
修学旅行で沖縄へ行く学校も多いだろうが、近頃はヒメユリの塔をはじめ戦争の遺跡に行かないらしい。生徒が気持ち悪がって嫌がるからだとか。教師たちも企画をする旅行会社もどうかしている。
ひめゆりは野戦病院の看護補助員てす。
偏向した資料館へは足を向けないのは正解では。
人間から戦争は永遠に無くなりません。戦争が仮に無くなれば内戦が始まり、内戦が無くなればテロが始まるだけ。
平和と安易に使われるけど、平和とは「地上からあらゆる争いが無くなること」が本来の意味だそうです。無理だから真面な者は平和ではなく安全を目指して努力するしかありません。
弾薬の運搬など日本軍の補助的な役割を担ってくれた男子達は、最後は爆弾を背負わせて敵戦車への自爆攻撃や切り込み隊として玉砕を強いる。
野戦病院での看護活動に尽力してくれた女子達は、一方的に解散を伝えそのまま戦場へ見捨てる。
当時の日本軍上層部や教育関係者の無責任さには本当に頭に来ます。
右でも左でもどちらでも関係なく、ただ二度とこのような悲劇を起きない方策を取るということ。違うのはそれを実現するため、無防備でいれば大丈夫なのか、あるいは確かな抑止力をもって防ぐのか。ということ。
かつて父親と「沖縄決戦」という映画を見て、小林桂樹演じる牛島司令官や、丹波哲郎演じる長参謀を立派な人たちだと思っていたが、その後に沖縄戦について学んでゆくと、日本軍が沖縄県民を犠牲にして戦った結果、県民の4人に一人が亡くなったこと、長参謀が沖縄弁を話す者はスパイと見なして処刑せよという指令を出したために殺された県民もいたことなどを知って失望した。そういえば、自分はかつては二・二六事件を起こした青年将校も腐敗した政治家を殺した英雄だと思っていた。今は自分の不明を恥じる。
ウクライナ戦争を見ての通り軍事力を持っていようが確かな抑止力とはならない。
結局、核兵器だって今のところは保有国が使っていないというだけであって、実際に使われることが永遠にないと言い切れる人間なんていない。
つまるところ平和のための軍事力増強などというものは存在しないのだ。
特攻兵器を考案した奴らは全員天寿を全うした
インパール作戦などを指揮した牟田口も戦後天寿を全うした
上が責任を取らないのは
最早日本の伝統と言えるだろう
ハル・ノートを受け入れるかどうか…
この判断において当時の外相松岡洋右は判断を誤った。当初の内容は経済制裁を日米お互い解除するかわりに太平洋地域の現状維持を求めたものだったが、日本にとっての戦争の意義は資源の確保が第一目標であり、仏領インドシナや蘭領インドネシアは外せない狙いだった為、さらなるアメリカの譲渡を引き出そうとした結果だという。
一方で松岡洋右はユダヤ人を助けようとした杉原千畝をバックアップした人間という側面もあり、この部分では千畝と共に称賛されている。
称賛されている一方で、この時千畝が逃したユダヤ人がアメリカで原爆の開発に携わり、日本に投下され、数十万人が死亡した…
戦争とは難しいものだとつくづく思う。
千畝がユダヤ人を見捨てて居れば日本人数十万人は死ななくて済んだのだろうか…とかね。
この中で批判殺到は覚悟で書き込むと軍からの指令は戦場に巻き込みたくないとも取れる。別な戦場のペリリュウ島だったか一緒に戦う意志の島民たちを強制退去させて島民を守ったと戦後に感謝されたらしいことも。当時の指揮官の意図を知らない人達が騒ぐのはおかしい。
「広島出身」の岸田さんはじめ、国会議員の皆さんはどのように感じるか、こんな悲劇を繰り返さない為に
どうしたら良いのか、深く考えて欲しいです。
軍部も民間人に対して指導や保護をしなくてはいけないのに手が回らなかったとも聞きました。沖縄戦終結な際の「沖縄県民かく戦えり…」って話の最初の部分は我々軍人が世話してやらなきゃいけないのに手が回せず、過酷だったのに県民たちはよく耐えて協力してくれたって話で、後世特別のご配慮を…って話で終わりだったはず。
戦争したくないって言ったって当時は帝国主義がまだ跋扈していた時代なんですから、戦後の我々が無闇に先人批判ではなく当時の状況の検証くらいすべきなんでしょうね。ロシアのウクライナ侵攻で世界はキナ臭くなってきているんだし。
個人的な勝手な憶測だが、
トップの人間がと言うより、トップに「防衛失敗して現場救出の隊を出させてください」なんて言えなかったのでは?敗戦もまともに放送されなかったと言うし。
本人の上昇降格にも影響するだろうしさ
今で言うブラックってやつです。
今よりも縦社会が強く戦争で勝つという大義名分がある時代なので日本人の気質はまだまだ受け継がれているんでしょう。
沖縄は…
米軍のみならず日本兵にも苦しめられましたね。
私は沖縄へ遊びに行きたいと思う反面
その現実を見るのが怖い気さえしてしまい
中々行く気になれません。どうか彼女がゆっくりと安らかに。
向こうの世界では戦争など巻き込まれる前の
楽しい日々を送ってほしいです。
そう思われるなら、ぜひ沖縄へ行ってひめゆりの塔と海軍壕公園に行かれることをおすすめします
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の原文が見られます
軍人たちが自決した部屋も残っています
軍人たちが戦況悪化の中、判断を誤って沖縄の一般人を危険にさらし、たくさんの命をなくしてしまったことは事実です
その一方で軍人たちは日本や日本人を守るために劣悪な環境で必死に戦っていたのもまた事実です
自分ならそのとき正しい判断ができたろうかと思うと到底できたとは思えません
だから仕方ないとか誰も悪くないとかそういうことではなく、戦争は日本がしたくてしたわけじゃないからそう仕向けたアメリカが悪いとかそういうことでもなく、思想の垣根を超えてただ亡くなった方々を軍人一般人の区別なく悼み、手を合わせ、沖縄の美しい海を見ながら平和についてぼんやり考える
そういう旅があってもいいと思います
kogさんに同意します。
私も、ずっと沖縄に行きたいと思いながら、一昨年と昨年、やっと行けました。
コメ主と同じ考えで、行きにくい、しかしだからこそ行かねばならない、と思いました。
生活に困らないくらいのお金ができたので、遂に行くことができました。
ひめゆりの塔のほか、各ガマや、kogさんの言う「沖縄県民斯ク戦ヘリ」も見ました。
実際に現場に行って、自分で考えることが大事だと痛感しました。
そして現在、日本で生きるものは、沖縄について考え続ける必要があると感じました。
米軍基地がこんなにも身近であること。戦闘機が常にあんなにたくさんこちらを向いていること。道路には米軍車がガンガン走り、乱暴な運転の人もけっこういること……
沖縄が他の日本人の平和のために引き受けさせられていることについて、自分なりに考えていかなければならないと思います。
変な返信が多いような…。
Ka-i10さんが沖縄の歴史を知っているからためらっているのです。何とも思ってなければ楽しく旅行しているでしょう。Ka-i10さんのペースでご縁があれば行けば良いだけです。
Ka-i10さんの気持ちはコメントの最後の3行に込められているのではないでしょうか。
もちろんひめゆりの塔や、摩文仁の平和資料館、対馬丸記念館、海軍豪公園など、戦争の資料や戦跡はたくさんありますし、
本来なら沖縄に来る人みんなにどこか1か所だけでも見ていただきたいとは思いますが、沖縄に嫁いで住む者としては、その気持ちを持って沖縄を楽しまれるだけでも良いのではないかと思います。
そんなことも考えずに浮かれている観光客はうじゃうじゃいます。
小4で、初めて沖縄に来て訪れたひめゆりの塔資料館での語り部の方の話と、資料館の壁にずらりと並ぶ自分とさほど歳の離れていない少女達の顔は未だに忘れられません。
資料は正直辛すぎる内容です。
私も子供を産んだ今となっては、資料館へ行く勇気はありません。
それでも忘れたわけではないし、慰霊の日は静かに黙祷もしています。それでも宜しいでしょうかと思いながら戦禍を生き抜いてくださった夫のご先祖様に感謝して日々生きています。
沖縄ではひめゆり以外にも悲惨な現実がありました。
本土では17歳以上が兵士招集と規定されてるのに、沖縄や台湾など一部の離島の人は、14歳以上の子供も招集されました。
しかも、その少年兵(鉄血勤皇隊等)の任務は、戦車への斬り込み攻撃を命じられた者もいました。
戦車への斬り込み攻撃とは、木箱に10キロの黄色火薬を入れた「急造爆雷」を背負って戦車に体当たりして爆破する任務です。
装甲の厚い戦車車体ではなく、キャタピラの切断を狙って、轢かれるようにして爆死するのです。
>出た出た天皇の戦争責任とか言っているネトサヨ。天皇の詔勅の下、太平洋戦争は始まった。
それでも責任はないの?
別に天皇は銃剣を突きつけられて詔勅を発したわけではない。
当然、道義的責任はある。
米国が戦争責任を不問に付したのは責任が無いからではなく、統治上都合がいいという政治的判断からだ。
今でも日本軍人を美化してる人達がいますからね。もちろん全員ではないでしょうけど、職業軍人はかなり酷い事してる。東南アジアでも暴力的で評判悪く、欧州人支配の方がマシだったと英米軍に協力するゲリラもたくさんいたようですから。
返信ありがとうございます。
皆様のコメント参考にさせてもらいます。
そうですね。今なら行けると思えたとき行ってみたいと思います。本当に皆様ありがとうございます。
行ってみたほうがいいかもしれないという気持ちも強くなりました。
自分もKa-i10と同じ考えでした。
行ったらまた考え変わりますよ。
『対馬丸記念館』にも行ってほしいです
>欧州人支配の方がマシだったと英米軍に協力するゲリラもたくさんいたようですから。それは相互利益があっての協力関係なんじゃないの
自分は沖縄が大好きで毎年7月には1週間の休みを取り、家族でマリンスポーツを始めとしたバカンスを楽しんでいます。
しかし、初日は必ず平和記念公園とひめゆりの塔に行き、献花をさせて頂いております。ひめゆり学徒隊の方々の壮絶な生きた証は涙なしには見る事は出来ません。
今を生きる日本人として、沖縄の全てに感謝し楽しむのならば歴史に触れて学ぶ事も大切な事だと思います。
ひめゆり記念館には二度行きました。十代で亡くなった女の子の生前の写真が百数十枚並んでいるのを見てゆくうちに、涙が出て止まらなくなりました。どんな大義があったとしても、戦争そのものが「悪」なのだと思いました。
ひめゆり学徒会だけじゃなく、沖縄本島だけでも10以上の学徒隊が編成されてるよ(全部で21コかな)。本島以外だと宮古島とか八重山とかね。時間が許す範囲で構わないと思うので、その他の学徒隊の慰霊碑にも足を運んであげてください。ひめゆり学徒隊がすごく有名ですが、みんなお国のために若くして尽くしてくれた方々です。頭が下がる思いです。
以前沖縄好きな上司が、沖縄に行くならまずひめゆりに寄るのが礼儀だと言っていました。
他の方も行っておられる、他の場所も勉強してみたいと思いました。
素晴らしいと思います。
これからもそのお気持ちを大切になさって下さい。
貴方はご立派です。その気持ちをお子様にも伝えてあげて下さい。
そこお考え素晴らしいです。
そもそもここでバットボタンを押す人って
ハッキリ言ってどうしようもないな
ありがとうございます。
学生の頃だったか「ひめゆりの塔」の本や映画だっとおもうけど
レンタルビデオを借りた記憶あります。沖縄上陸やバンザイ岬・・衝撃受けて自分らはその戦争さえ経験
してないのに、戦争の悲惨や後世に語り継ぐべきだよね、って思
ったものでした。
昨今の世界情勢見るに、昔流行ったまさに「戦争を知らない子供達」
が国家の中枢になり核もちらつかせてる世の中。
戦争体験者の方々の思いをムダにしてはいけない、そんな思いと共
にご冥福をお祈りいたします。
学校の先生と生徒を引率する兵隊役の大森嘉之が、「自分は北海道十勝の小学校を出たんでありますが、先生に褒められたのは初めてであります!」って照れながら直立不動で言うシーンが好きでした。
先達の苦労があってこそ、今の我々がある。
そのジュニアたちに一時のカッコよさに流された親不孝者が多いが、我々は粛々とその事実を語り継いで、敬意と感謝を忘れてはいけない。